水辺農園だより
Vol.8 2020年11月
先月で稲刈り脱穀が終わり、今年のお米づくりはほぼ終わった。
田んぼに稲があると、そちらの作業が最優先されて、時間ができたときにやろうと思っていた作業がだいぶたまっていた。11月は発送仕事の傍らでずっとそういう仕事をしていた。
それぞれの田んぼにハゼ置き場を作り、ハゼを片付けた。馬入れ(トラクターなどが田んぼに入るところ)を整備し、秋おこしをした。トラクター、バインダー、ハーベスターなど秋に使った機械の整備をし、自前で籾摺り精米できるように施設を整えた。倉庫兼作業場として使っているコンテナハウスの整備を進めていった。自家用だが、大豆の脱穀などの畑仕事をした。毎日やりたいことは山ほどあって、暇になるということはなかった。
そして、仕事をしてるのではあるけれど、かつて地図を見て旅に出たり山に登ったりしていたのと同じような、ずっとそればかり考えてしまう感じになっている。
どんな遊びよりも、農園にまつわることをやっている方が楽しくて、遊びなのか仕事なのか区別できない。そして子供が次々と遊びを思いつくように、やりたいことを次々と思いついてしまう。この分ではひと冬など簡単に過ぎてしまいそうだ。だから、稲を育てていない期間でも、農閑期などはないことが分かった。よく「冬は何をするんですか」と聞かれるが、冬も変わらず、農園にまつわることをすることになりそうだ。
仕事と遊びが、ゆるやかにつながっている。そしてそれは、私が長いことかけて求めていた状態だった。
十数年前に東京のアパートの一室で、ありあまる自由さの中で立ち往生していた日々が、思い出される。
その当時は渇いた喉に水を流し込むように、かなりたくさんの本を読んでいたが、その中の一冊『野の道 宮沢賢治随想』山尾三省に、こんな言葉があった。
「幸福とは自分とひとつのものになることである。それは喜びばかりではなく淋しさや苦しさをも等しく含んでいる、自分及び自分が置かれている場の人生に、根本的に同意できることである。これでよいのか、と自己に問う時、これでよいと根本的に自己が答えることである。するとそこに自己があり、自己に他ならない場が現れる。」
「これでよいのか」と問うたびに、「これでいいはずがない」と答えが返ってきて苦しかった。そしてその度ごとに、私は道を大きく変えてきた。それは、時に震えるほどの勇気が必要な変化だった。
そして今、これでよいのかと問うと、「これでいい」と答える自分が確かにいる。そして確かに、田んぼという場が現れている。このように肯定できる日が来るとは、当時は想像することができなかった。いま確かに肯定できていることに、驚きすら感じている。
現状に満足しているということでは決っしてない。
改善しなければいけないこと、解決しないといけないことだらけで、満足からは程遠い。
それでも、根本的なところでは「これでいい」と同意できる。この方向で間違ってはいない、と。この道を歩いていけばいい、と。
足元には土があり、見上げると太陽がある。そういう場で生きていくことに、根本的に同意できる。
ありあまる自由さの中で立ち往生しながらも、どうにか手探りをしながら、今のこの、太陽の下、土の上にある生活を求めてきた。おそらくその長いプロセスを忘れてはいないから、どんな農園の仕事も、深い喜びを持って取り組むことができるのだろう。思い通りには行かない苦しさを感じることも多々あるけれど、この仕事の幸福は少しも薄まらない。
今月、就農相談を二人の人から受けた。
これから農業へと踏み出したい人の話を聞きながら、かつての自分を見ている気がしていた。
農業を仕事にしていくことは楽ではないが、喜びも深い。
その喜びを予感として本能的に感じているから、この道を志しているのだろう。
晴れた日に、太陽の光を浴びて、土の上にいられる仕事。そこには人としての根源的な喜びがある。ぜひ一歩を踏み出して欲しいと思った。
来年から、田んぼがもう三枚増えることになった。
今年耕作した田んぼのすぐ隣りの田だけど、新しい田んぼに立つと、見えてくる光景もまた違っていて、とても新鮮に感じられた。
新しい田をトラクターでおこしながら、ここからの光景を、これから何度も見ることになるのだと思った。
農業は、そこからの風景を毎日のように見る仕事で、自分もまた風景の一部になっていく仕事で、そして風景を育てていく仕事でもあることを、改めて思った。