水辺農園だより
Vol.10 2021年1月

雪がたくさん降った翌日に、よく晴れたので田んぼに行ってみた。
車はもちろん入れないので近くに停めて、ひざぐらいまで雪に埋まりながら、雪原になった田んぼを歩いた。
動物の足跡が田んぼを横切っている。太陽が雪に反射して眩しい。
毎日のように通っていた田んぼだけど、雪が降ったら全然行かなくなったので、久しぶりに田んぼに来て、少しなつかしいような気持ちになりながら歩いた。


年が明けて、今年の稲作について、考えることが多くなっている。
稲作の本を読んだり、去年の記録を見直したりしている。

去年の経験を踏まえて、育苗の方法について、水の管理について、除草方法についてなど、細かく改善したいところがある。
田んぼの面積が去年の1.5倍ほどに増える予定なので、なかなか大変そうだけど、楽しみでもある。春になって、また田んぼを始めるのがとても楽しみだ。

農業はなぜこんなにも楽しいのだろうか。
農業は、ときに大変だけども、苦しくはない。
何か「ほんとうのこと」の現場にいるという感覚がある。
その感覚さえあれば、どれだけ大変でも苦しくはなく、むしろ喜びが大きい。

稲づくりは、その過程で多くの命を育み、そして奪っている。
田んぼに水を入れるだけで、田んぼの環境は激変し、無数の命を奪い、そして育むことになる。逃げ遅れた虫たちが溺れ、カエルが産卵し、ヤゴが羽化し、クモが稲の葉に巣を張る。

田んぼの水を抜くだけで、やはり無数の命を奪い、そして育むことになる。逃げ遅れたおたまじゃくしが、水溜りに集まり、鳥たちが来て食べたのだろう、無数の鳥の足跡が残っていたりする。

稲は植物なので、なるべく生き物を殺さずに仕事ができるのではないかと思ったこともあるが、とんでもなかった。特に有機農業をするのであれば、より多くの命を奪い、そして育むことになる。農業はそのような、生死の現場に近いところにいるということを、実際に経験してみて気がついた。

そして、お米を育てながら気づいたことは、自分が関係性の網の目の中に、深く組み込まれているという事実だった。ヴェトナムの禅僧ティック・ナット・ハンの言葉を思い出す。

「もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙のなかに雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには、樹が育ちません。そして樹々なしには、紙ができません。ですから、この紙のなかに雲があります。(中略)いっそう深く見るならば、あなたは、一枚の紙のなかに、雲や陽光を見るばかりでなく、すべてのものがそのなかにあることを知るはずです。」『ビーイング・ピース』

私は詩人ではないけれど、一粒のお米を見て、田んぼの上空に浮かんでいた雲を、はっきりと見ることができる。雲だけでなく、雨を、泥を、風を、照りつける光を、容易に見ることができる。さらには、畔草刈りの途中で殺してしまったカエルや、突然現れて驚いたヘビ、泥の中に蠢いていた無数の小さな生き物を見ることができる。
関わってくれた多くの人の顔や、声、仕草や想いもまた、そこに見ることができる。
そして田植えをした時の泥の感触、草取りをした時の引っこ抜いたコナギの感触、稲を刈る時の胸の痛みと手の感触を、ありありと思い出せる。

そうやって、たった一粒のお米を通して、無数の、無限の、関係性の網の目を見ることができ、そのお米を食べて、その中に入っていくことができる。
もともと入っているのだけど、そのことに気づくことができる。

田んぼには、そのような喜びが、見えやすい形で存在している。
何一つ切り離されてはいなく、相互に関係しながら存在している、この喜びは深く、そして替えがたいものだ。
おそらく、一年、また一年とこの地で農業をしていくことで、より深く、より豊かに、この関係の網の目を発見し、築いていけるのではないか。その予感があるから、楽しみで仕方がないのかもしれない。

「いちばん遠い場所」として、アフリカの南端の喜望峰へと自分を強引に切り離し、そこから日本へと自転車で帰った長い旅があった。そして、東京に住み、世界と私をつなぐ接点として、水源を強く求めた。田んぼという場に立つと、本当は始めから何一つ切り離されてなどないということに、ゆっくりと気がついていった。

「「花の輝きの経」(華厳経)は、この一枚の紙と関係のないものが、何ひとつとしてないことを、教えています。(中略)紙が、すべての紙でない要素によって成り立っているということを突きつめてゆき、(中略)その根源にまで遡ってゆくと、紙は分かれていないということになります。分かれていないということは、紙がいっさいのもの、宇宙全体によって満たされているということです。」(同上)

紙を米に替えるだけで、このような哲学的な言葉が、頭の中だけの想像ではなく、実体験として、当たり前のこととして感じられるのが嬉しい。華厳経のことはほとんど知らないが、この世界観は知っていると思えてしまう。

無数の生き物が生死する田んぼに立って、私もその中に入っていき、稲を育てる。
泥の中に足を突っ込んで、草を抜き、虫(イネミズゾウムシ)を殺す。ヒルに血を吸われ、アブに噛まれる。カエルの大合唱を聞き、山に夕日が沈むのを眺める。

「ほんとうのこと」の現場にいるという感覚は、そういう無数の体験の積み重ねから、自ずと育まれるものなのだろう。実際に、田んぼに立って、体験を積み重ねたい。雪が溶けて、春になるのが待ち遠しい。


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