水辺農園だより
Vol.15 2021年11月
9月下旬に、今年最初の一株に鎌を入れて、稲を刈り取った。
友人が重い病気になり、お見舞いに持っていくためだった。
彼は腸閉塞になり、何も食べられなくなり、点滴で栄養をとっていた。
電話口で彼は、ずっと食べてないので、この世に存在していないみたいと言っていた。
手術をすることになるので、治ったら僕たちが育てたお米を食べたいと言ってくれた。
次に電話が来たときに、手術をしたら、小腸ガンになっていたと言った。
かなり状態が悪く、年内はもたないかもしれない、病院は退院し、自宅で緩和ケアになると言った。
そして、ずっと点滴だけど、おかゆ一口ぐらいなら食べられるかも、と言っていた。
こんなにも強く、誰かにお米を食べてもらいたいと思ったことはない。
だから、新米ができるにはまだ少し時間がかかるが、その前にせめて今年の稲穂だけでも持っていこうと思ったのだ。
しかし、刈り取った翌日に訃報が届いた。電話をもらってから10日後だった。
翌日、彼に渡すはずだった稲穂を持って彼の家に行き、遺影の前におかせてもらい、手を合わせた。
その数日後から稲刈りが始まった。
稲刈りをしながらずっと、彼の言葉が頭の中で繰り返し思い出されていた。
「この傷を受けよう、この世界からの決別と友愛の徴(しるし)として。」
お父様が見せてくれた、彼が亡くなる一ヶ月ほど前の日記に書かれていた言葉。
自らの死を自覚し、受け入れて、友愛のしるしとさえ書いているこの言葉が、頭の中で繰り返し思い出されるようになっていった。
黙々と稲刈りをしているときに、田んぼへと車を走らせているときに、刈り取った稲をハゼかけしているときに、何か、とても大切なものがそこにあるように思えてならず、繰り返しその言葉が思い出されていた。
彼の日記の最後の方は、料理のレシピが数十ページにもわたり、延々と書き写されていた。
電話口でも彼は、この頃はずっとレシピを書き写していると言っていた。
そして、料理をしたい、食べたいと言っていた。
傷を、世界からの友愛のしるしとして受けること。そして、料理をすること、食べるということ。
何か、とても大切な問いを手渡されたようで、ふとした瞬間に、そのことに思いを馳せるようになっていた。
稲刈りを一週間ほどで終えて、最後の田んぼは多くの人に来てもらい、皆で手で刈り取って、しばって、ハゼにかけた。遠くから近くから友人が来てくれて、畔に座り、みんなでご飯を食べて、話して、お茶をした。
そういう時間がいつもとても楽しいのだが、今年はよりかけがえのない時間だと思えていた。
稲刈り後、一週間から二週間ほど天日干しにして乾燥させた後に、次々と脱穀していった。
そして、倉庫に今年のお米が積まれていった。それをもみすり、精米し、袋詰めして、発送していく。
10月はそれだけでも十分忙しいのだが、彼がやることになっていた芸術祭の記録撮影の仕事が、彼の急逝により急遽私が引き受けることになり、多忙をきわめた。
10月2日に開幕した北アルプス国際芸術祭。
私は市内の蔵に写真と映像を展示していた。展示自体は5月に完成しており、その記録撮影は5月に彼にしてもらっていた。
そのとき彼と写真を前にして話したのが、彼と会った最後になってしまった。
彼と田んぼの写真を前にして、「光」について話した。
彼は、田んぼ自体が光を受けて現像する「写真」なんだということがよく伝わってくると言ってくれた。「写真」とは、彼の言葉によると、“photo”「光」“graph”「描かれたもの」ということ。田んぼ自体がフイルムで、そこで稲は光を受けて、お米として結晶する。
そのような、光で描かれる場としての田んぼというイメージは新鮮だった。
展示するということは、ビンに手紙を入れて海に流すような感じがあり、本当に誰かに届くのかいつも心もとない。だから、このような応答は、一人旅をしていたときに、道端で不意に同じように旅している人に出会えたような喜びがあった。
山は上の方から紅葉し、やがて一面が赤や黄色に染まり、それから風が吹いて落葉し、冠雪していった。
10月11月と、稲刈り、脱穀、発送、秋起こし、片付けなどの農作業と並行し、芸術祭の作品やイベントの撮影を進めていった。そして、多忙の中でもずっと、彼の言葉が、繰り返し思い出されていた。
「この傷を受けよう、この世界からの決別と友愛の徴(しるし)として。」
まるで、この傷、この病さえも、世界が彼を愛しているしるしとして受け取っているような言葉だった。
きっとそういう瞬間があったのだと思う。傷を友愛のしるしとして受け入れた瞬間が、きっとあったのだと思う。そしてそれはおそらく、この言葉を書いたそのときだったのではないか。
なぜこのような病をと思い、それを世界からの決別のしるしと受けとめた直後に、そこに友愛のしるしとしても感受し、書き留めたのではないか。
彼の訃報に接し、その数日後に朝一人で黙々と稲刈りをしていたときに、彼の言葉を思い出していたらふと、この稲が、こうやって育っていることが、世界からの友愛なのだということに気づかされる瞬間があり、胸がいっぱいになった。
朝の静けさの中で、稲を刈り、それを束ねて放り出す機械の音が響いていて、手にはその振動がある。
春からずっと見守っていた稲が、こうして元気に育ちお米になっている。田んぼに降り注いだ光が、お米として結晶している。そのこと自体が全て、世界からの友愛なのだということ。そしてそれは、いまは世界に溶け込んだ彼からの友愛のしるしでもあった。
私たちは世界から、こんなにも愛されていた。
私たちが世界を、自然をどう思おうが、自然は人間に対して、無関心だと思っていた。しかし、田んぼの只中を黙々と歩きながら、彼の訃報により頭が空白になっているところに、その気づきが光のように差し込まれ、それはもっとほんとうのことのように思え、胸が詰まった。
彼は、自らの傷をとおして、世界を愛することができ、そして世界から愛されていると感じていた。彼の探求は、そういうところまで到達していた。
友人であり、稀有な写真家でもあった下川晋平氏。
傷さえも友愛のしるしとして受けとめた彼の34年間の人生は、間違いなく豊かなものだった。静かに手を合わせたい。