水辺農園だより
Vol.14 2021年8月


4月に更新してから、だいぶ水辺農園だよりに間が空いてしまった。
農作業をすることから書くことへと頭を切り替えることができず、何度か机に向かって書こうとしていたのだが言葉にならず、しばらくお休みしていた。

その間に、育苗と田植えがあり、草取りがあった。ずっと頭の中は、あれをやって次はこれをやってと、具体的な作業のことを考え続け、手足を動かしていた。
そしてそのモードから、頭を切り替えて書くというモードにできなかった。
草取りがひと段落し、稲の穂が出てきて、4月の育苗から休みなく続いてきた田んぼの仕事も少し余裕ができて、ようやく文章を書こうと机に向かっている。

ずっと具体的に手足を動かし続けること。
それは、東京に住んでいた頃、ひたすら本を読んだり、何かを書いたり、考えたりし続けた生活とは真逆な日々だった。そして、あの頃に切実に求めた生活なのは確かだ。

春からずっと、考えることといえば、いつ田植えをするかとか、田んぼの水の深さをどれぐらいにするかとか、次の除草はどの田んぼにするかとか、そういう具体的なことばかりだった。田んぼのことで頭がいっぱいで、もっと難しいことや抽象的なことは、とても考えられなかった。
ちょっとでも難しい本はとても読む気にならず、頭に入ってこない。読むものといえば稲作などの技術書、実用書ばかりだった。

そしてそれは、幸せな日々だったことは確かだ。
日々はとてもシンプルで、やることは明確に目の前にあり、ただ稲を元気に健康に育てていくことだけに意識を向けていればよかった。
日中に体を動かせば夜はよく眠れるし、そうすれば夜中に色々と考えすぎることもない。

そうやって数ヶ月が過ぎ、稲の穂が無事に出てきて、それをほっとしながら見つめて、ようやく、シンプルで閉じられた幸せな日々から少し出て、水辺農園だよりを書いている。稲の穂が出てくる姿に、なぜか背中を押されるようにして、机に向かっている。




北アルプス国際芸術祭の先行公開展が、5月にあった。
それに間に合わせるために追い込んで展示作業をし、どうにか形にした。
大町の水源域の写真と映像、そして自分の田んぼの写真を、市内の蔵に展示した。

展示作業が終わると、すぐに農作業へと意識が切り替わった。
あぜ草刈りをしたり、トラクターで代かきをしたりと、田植えに向けて今度は農作業が一気に忙しくなった。
そして田植えは、5月29日にまず、多くの友人と手植えをし、翌日から機械で残りの田を植えていった。
田植えが終わると休む間もなく草取りの日々になり、それが7月下旬まで続いた。田んぼと家とを往復するだけの日々で、会う人も限られており、淡々とした静かな日々だった。
5月に展示をして何か空っぽになってしまったので、土や水に触れながら充電するような日々だった。

そのような日々の中ずっと、田んぼをやっててよかったと思っていた。
田んぼは、具体的に手で触れられて、生々しくて、日々変化していた。
淡々とした日々だったが、そのような日々から、確かにエネルギーを受け取っていた。

刈り払い機であぜ草刈りをしている時に、カエルが逃げる方向を間違えて、回転している刃へと飛び込んでしまい、傷を負って田んぼの中へと落ちてしまうことがあった。腹部から赤い血が滲み出ていて、水の中へ広がっていく。まだ少し体を動かしているが、やがて死んでしまうだろう。思わず機械をとめて、手を合わせる。
生き物を殺さずに稲作ができたらいいのだが、現実は難しい。

7月のある日、ヤゴが田んぼの中で一斉に羽化していた。ゆっくりのけぞるように体を出して、一回転してから折り畳まれていた羽を広げていく。その薄緑色の体と、透明な羽がとても美しい。
その様子を、除草の手をとめて、じっと見つめていた。
羽化したてのアキアカネで、夏のあいだは山の上の方に行き、体が赤くなって秋にまた田んぼに戻ってくるそうだ。

腹部から滲み出た、カエルの血の赤さ。
羽化したてのアキアカネの、透けるような羽と薄緑色。
その色が、目に焼き付いている。
田んぼは、そのような色に満ちている。

ある夏の夕方、さっきまでそれほど飛んでいなかったはずなのに、いつの間にかツバメが何百羽と田んぼの上空を飛んでいることがあった。その鳴き声と、旋回するときの風切り音。

春におたまじゃくしが大発生した田んぼがあった。
田んぼに水を入れると、新鮮な水を求めてか水口に集まってきて、水口あたりがおたまじゃくしに埋め尽くされた。折り重なるように新鮮な水を求めて泳いでいる。その水をはねる音。

田んぼはそのような、生々しい音にも満ちている。
そういう色や音に満ちた田んぼに日々通っていると、特に何も起こらないけれど、よく観察しているだけで、元気でいられる。

今年はじめて耕作する田んぼが3枚あった。
春に作業を始めた頃はなんだかよそよそしく感じていたが、数ヶ月間通っていると慣れてきて、もう何年もその田んぼで耕作している気すらしている。

稲は、夏至をすぎた頃から、栄養成長期から生殖成長期へと変化し、奥の方で穂作りが始まる。自分の体を成長させることから、次の世代へと引き渡すことへと、エネルギーの使い道を徐々に変化させていく。そして穂が出てからは、葉っぱで受けたエネルギーを、ほとんど全て穂へと集中させ、穂を充実させて、自分は枯れていく。ときあやまたず変化する様子はいさぎよくて、羨ましい。

田んぼの草取りがひと段落し、畔草刈りも終わり、
穂が出てきた稲を見て、ほっとした気持ちで田んぼを眺めるのがとても好きだ。
それぞれの田んぼをぐるっと一周しながら、いい稲になったなーと見て回るのがとても好きだ。

風が吹いて、稲が揺れている。
稲の葉が、光に透けて輝いている。
秋が近づいたらまた忙しくなる。あれをやってこれをやってと、具体的なことに追われる事になる。それはそれで充実していて好きなのだが、今はただ田んぼを眺めていたい。

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