水辺農園だより
Vol.17 2024年3月

就農して4年目が終わり、春になれば5年目の稲作が始まる。
毎年、様々に工夫し、新しいことにも取り組むのだが、それでも基本的なことは変わらない。種を蒔き、苗を育て、田植えをする。草取りをして、稲刈りをして、脱穀をする。そういうことは一年目から何も変わらない。その変わらなさを退屈と思うか、変わらない営みの中に喜びを見出していくかで、同じ稲作をしていても、見えてくる光景が全く違ってくるだろう。

変わらなさの中に喜びを見出すこと。
それは、循環する時間の中に入っていく喜びなのだと思う。
時間は、「私」の生死の視点から見ると、誕生から死へと、直線的に感じられる。
しかし、生き物にとって「時間」とは、そもそもは太陽の動きとして感じられるもののことだろう。
それは地球の自転、公転のこと。一日と一年という、繰り返される営みのこと。
だから、「私」の生死という視点から離れると、時間は円環的に流れている。

「私」という「個」に閉じ込められている時は、時間は直線的にしか流れない。
しかし、農業を営むようになって、毎年の稲作の営みが、徐々に繰り返す営みとして意識されていき、自分がいつの間にか循環する時間の流れの中にも入っていることに気付かされる。その繰り返される営みの中に見出していく喜びを、安心を、体に染み込ませていきたい。そのような時間の中でしか、出会えない光景があるだろう。


就農4年目となる2023年も、春から秋はひたすら体を動かしていた。
種まきをしてから脱穀をするまでは、ずっと稲のことが気がかりで、稲の栽培についての具体的なことばかり考えていた。そうして無事収穫し、田んぼに稲がなくなると、自分の中ではっきりとモードが切り替わっていった。

春から秋にかけて、ひたすら体を動かしている時は、言葉が出てこない。
ただ体験しているだけで、言葉はいらないとすら思っている。言葉にしてしまうと、この幸福が壊れてしまうように思っているのかもしれない。何かの一部になり、ただ体を動かすことの幸福感は計り知れないものがある。
それでも、田んぼに稲がなくなり、雪が降り積もると、冬には言葉が出てくる。「私」が出てくる。そして体験から言葉を紡ごうとする。体と頭をつなげようとする。

春から秋は、実用書以外の本が読めなかったのだが、冬はたくさん本を読んでいる。
そうして本を読んだり、勉強したり、対話したりしながら、この冬に思索していたことは、水辺農園をどのような農園に育てていきたいか、ということだった。それは言い換えれば、未来にどんな世界を見たいのか、ということでもある。

正直に言ってこの4年間は、ただ稲作を経営的に成り立たせていくことに必死だった。
だから、農業で食べていけることが、ともかく当面の目指していることだった。
いまだに楽観はできない状況ではあるが、それでもありがたいことに毎年収穫したお米は売り切れており、少しづつ田んぼを増やし、さまざまに工夫していけば、あと何年かかるか分からないが、やがて私たちが慎ましく暮らしていけるぐらいにはなるのではという希望が持てている。

だからだろう、いつからかこの農園を育てていった先に、どのような社会を、どのような世界を、見ようとしているのかを、考えるようになっている。そしてそれは、「なぜ農業を始めたのか」ということを、思い出すことでもあった。

農業を始める前、私は写真を撮っていた。
「水源域」というテーマで、ライフワークとして、日本各地の沢を遡り、水源域の光景を撮影して展示するということを繰り返していた。それが私が、どうしてもやらなくてはならない仕事だと思っていた。
しかしそれだけでは到底食べていけないので、依頼されるままに写真撮影の仕事もしていた。
写真撮影の仕事は、撮影すること自体は好きなのだが、その後のパソコンの前での作業が、どうしても好きになれなかった。そして実際は、撮影する時間よりも、撮った写真を選んだり編集したりする時間の方がかなり長かった。

そのころ縁あって、耕作放棄地の田んぼを借りることになり、自家用に少しだけ稲作を始めた。やってみると、すぐに田んぼに魅了された。一方で、天気がいい日にパソコンの前にいると、絶対に何か間違っている気がしていた。
一日の中で、仕事をしている時間は長い。だから、どのような場所に長くいたいのかを思った時に、私はパソコンの前よりも、太陽の下、土の上により長い時間いたいと思ったのだ。そうして、田んぼを仕事にしたいと本気で思うようになっていった。農業を始めることを想像して、わくわくして一睡もできなかった夜があったことをよく覚えている。あの時の、田んぼに魅了された感覚が、農業を始めた原点なのだと思う。

やがて私は、水源域への撮影すらも行かなくなっていった。水源域へ行くことで求めていたことが、田んぼへと引き継がれ、発展していった。

田んぼの何にそんなに魅了されたのか。
種もみを浸水させて、やがて出てきた小さな芽の様子に魅了された。
田植えの数日後に、苗が無事活着し、夕方に葉っぱの先に水滴ができている様子に魅了された。
春の田んぼを覗き込んだ時に、泥の中に極小の生き物が蠢いている様子に魅了された。
草取りを終えてしばらくした頃に、葉の付け根から、奇跡のように出てくる穂の様子に魅了された。
盛夏に風が吹き、穂が踊っているように揺れている様子に魅了された。
稲刈りをするときのザクっと鎌で切る感覚、束ねた稲を持った時の重み、それを無心になって次々とハゼかけをしていく時間、脱穀をして、モミの入った袋が倉庫に積まれた時の安心感、その全てに魅了された。
そして、自分たちで育てたお米を炊いて、土鍋の蓋を開けたときの湯気の香り、食べた時の言葉にならない喜び。魅了されたことなら、際限なく数え上げることができる。
だから、水辺農園は、これからもこの喜びをさらに育てていく方向へと成長させていきたい。
そしてその先に、どのような世界を見たいのか。

かつて、どれだけ水源域に通い詰めても、風景と自分との間には、ある隔たりがあった。私は水源域を撮影しながら、焦がれるようにファインダー越しに光景を見続ける事しかできなかった。
ところが田んぼ仕事をしていると、よく通りがかる人が私たちの仕事の様子を撮影していることがある。そのとき私は確かに「風景の側」にいた。私は、ただ見ることしかできなかった「あちら側」に、いつの間にか立っていた。そのことに気づいた喜びは大きかった。そのとき、農園の仕事が風景をも育てているのだと気がついた。

だから水辺農園は、田んぼでお米を育てることと同時に、風景を育て、生態系を育んでいきたい。そして、人を含めたすべての生けるものが幸福に生きている光景を見たい。
お米や田んぼという場を通して、人と人がつながり、人と自然がつながっていく光景を見たい。そこにはきっと、「個」が溶けていくような幸福があるだろう。時間の流れかたも違って感じられるだろう。
そのような幸福を感じている人が多くいる社会は、きっと豊かなものだろう。そういう社会を、そういう世界を見たいから、私たちの農園もその変化を担っていきたい。


少し前までは、田んぼの雪がすっかり溶けて、もう春だと思っていたが、また雪が降り、田んぼは再び雪原になった。しかし、春の重たい雪だから、すぐに溶けていくだろう。

雪が溶けると、冬が終わる。
冬は、内なる場所で手探りしながら言葉を探す季節だ。言葉を探しながら、意識下で変化を起こしている。本当に大きな変化は冬に起きているのかもしれない。春から秋はその変化を具体的にするだけだ。冬から春へと、言葉と行為をつなげ、頭と体をつなげ、私と世界をつなげていきたい。


  私が大地になるなら、私が水になるなら
  私が草になるなら、私が花に、実になるなら
  もし私が、けものや鳥といっしょに地上を歩きまわるなら
  恐るべきものは何もない。
  私の行くところどこでも、限りなく続く絆の中に
  無限なる私が存在する。

  ラビンドラナート・タゴール



どこで出会った言葉なのか、どの本からの引用なのかは今となっては不明なのだが、だいぶ前の私のノートにこのタゴールの詩が書き写されていた。私が、私という境界からはみ出していき、世界と私の水辺で遊んでいるような幸福。このような光景を湖畔の田んぼで見たい。






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