水辺農園だより
Vol.4 2020年7月

6月7月と雨が降り続いていた。
とにかくよく雨が降る梅雨だった。でも、雨だからと草取りを休んでいたら草だらけになってしまうので、雨具を着て、傘をかぶり、雨の日でも草取りをしていた。

雨の日の草取りは、朝出かける前は少しおっくうなのだけど、一度濡れてしまえばもう関係なく、むしろ炎天下よりは快適だった。
だから、ずぶ濡れになりながら黙々と草取りをするのは、側から見たら大変そうな姿かもしれないけれど、案外楽しんでいたりした。

そうやって草取りを続け、7月9日に一度もうこれでいいだろうと思い、終わりにしたのだけど、数日経って、残っていた草が大きくなっていくのを見過ごすことができずに、やはりもう一度田んぼに入り、7月19日に本当に終わりとした。終わってしまうともう田んぼに入ることもなくなり、ほっとしたけれど寂しさの方が大きかった。田んぼの草取りは、地味で大変な仕事だけれど、慣れてしまえば実はとても楽しいのだ。

稲は順調に育っている。
雨ばかりで気温が上がらないので、成長はゆっくりだけれど、分けつを増やし、株は大きく開帳し、もう茎の根元は膨らんできていて、中では数ミリの穂ができつつある。
8月の中旬ごろには続々と穂が出てくるだろう。

冷害や病気、長雨や台風の直撃など油断はできないが、ここまで来ることができたら後は、秋の収穫に向けてできることはあまりない。水管理と畔草を刈ることぐらいで、あとは穂が出てそれが実っていくのを見守るだけだ。
どの田んぼもよく育っている。葉の色も濃くなりすぎることなく、見るからに健康的だ。きっとしっかりと実ってくれるだろう。


今年は田んぼの面積が4倍に増えた。
そして秋には、水辺農園として初めてのお米を販売することになる。

おそらく2トンかそれ以上の収穫になると予想している。それだけの量を販売するのは未知なことで、もうすでに何人かの友人からお米を買いたいと声をかけてもらっているが、すぐに売り切れるのか、かなり苦労するのか、全く予想ができない。

数年前、初めて友人にお米を買ってもらった時の、「お米」が「お金」に変化した驚きが忘れられない。
それは「お金」というものの概念が自分の中で大きく変わる出来事だった。

お米は太陽の光のエネルギーの粒のようなもの。
そのことを、何度かお米づくりをするうちに実感していった。
稲の葉に降り注いだ太陽の光のエネルギーが、水や土や風や稲の生理により、お米の一粒一粒へと変わっていく。だから、そういう目で、秋に収穫されたお米の一粒一粒をまじまじと見つめると、少し光って見えてきて、眩しくさえ感じるのだ。

そしてそうやってできたお米が、今度はお金に変わった。
そうすると、手にあるお金もまた、お米のように少し光っている気がして、とても驚いた。お金の額とは関係なく、労働の対価としてのお金でもない、太陽からの授かりものとしてのお金がそこにあり、不思議な喜びがあった。お米を手にした時と同じような感謝の気持ちが、自然と湧いていた。
「お金」っていったいなんなんだろうと、ある種の苦手意識とともにずっと思っていたが、その時何か腑に落ちる感覚があり、手にするお金を、喜んで、ありがたく受け取ることができた。

太陽のエネルギーがお米になり、そしてお金になる。
お金もまた、太陽のエネルギーが形を変えたもの。
そういうことに思い至ると、お米づくりを仕事にすることは、とてもシンプルで素晴らしいことのように思えてきたのだ。今思えばこれが、お米づくりを、自家用だけでなく、仕事としてやっていきたいと思った、一つのきっかけだったと思う。

20代前半に、アフリカをずっと自転車で旅していたころ、炎天下の中自転車を漕ぎながらふと、なぜこんなことをしているのか、この自分を動かしているものは何なのかと思い、いろいろ考えてから、結局は太陽なのだと思い至った時のことを思い出す。あの時の、そうか太陽か、太陽ならば仕方ないと、何か諦めとともに受け入れたことを思い出す。

あの時受け入れたことの延長線上に、今の自分がいるのだろう。
そう考えると、長い旅をしているなとも思う。


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