水辺農園だより
Vol.3 2020年6月
田植えが終わるとすぐに草取りが始まる。
除草機を押して田んぼを一日中歩き回り、株元の草は手でとって歩いた。
6月はほぼ毎日、午前も午後もずっと除草作業をしていた。
今年の草取りは裸足でやることが多かった。
きっかけは、長靴を履いていると水が入ってしまうぐらい深いところがある田んぼがあったことだった。
仕方がないから長靴を脱いで、何日間かその田んぼで草取りをした。
裸足で田んぼを歩くことの楽しさはもちろん知っていた。
でも作業後にかなり足に疲労を感じるので、今までは短い時間しか裸足になってこなかった。
でも、強制的に一日中裸足で作業するようになり、体が慣れてしまったのだろう。
やがて裸足でもそれほど疲れなくなり、むしろ長靴よりも足を動かすのが楽で、そうやって体が慣れていくのが嬉しくて、それからは他の田んぼでも努めて裸足になるようにしていた。
なぜ裸足になって田んぼを歩いていると、こんなにも楽しいのだろう。
裸足で田んぼを歩き回っていると、土の硬さや温度、土の深さなどが田んぼによってかなり違い、同じ田んぼでも場所によってかなり違うということが、ありありと感じられた。
そして「地に足をつけている」ということが体全体で感じられる。
でもそれはこの狭い土地に縛られている、という窮屈な感じではない。
20代前半に、自転車で世界を旅していたころだったら、今のこの状況はぞっとするような不自由なものとして感じていただろう。
あの頃は何にも縛られることなく、自由に移動していたかった。だから農業、というのはありえない選択だった。
変われば変わるものである。今は、太陽の下、裸足になって田んぼを歩いているともうそれだけで、自由のまっただ中にいるような嬉しい気持ちになっている。
でも草取りは、やはり大変な仕事ではある。
農薬を使わずにお米を育てると、田んぼに生えてくる草とどう付き合うか、ということを考えなくてはならない。
田んぼに生えてくる草の生命力には毎回驚かされる。
ヒエ、コナギ、オモダカ、ホタルイ、クログワイ、マツバイなどなど、様々な草たちが生えてきて、それぞれに個性がある。そして凄まじい生命力で増えていき、もし何もしないと稲は負けてしまい、収穫量がかなり減ってしまう。
だから、あの手この手で草が増えないようにする。
様々な除草、抑草方法が先人たちによって編み出されており、それらの方法を自分の田んぼに合うように組み合わせるのが、無農薬栽培の醍醐味でもある。
今年の草取りも、土づくりの段階から様々に対策していたのだけれど、それでも最後はやはり手除草になった。
株元に残った、やや大きくなったコナギやオモダカを、腰をかがめて一つ一つむしり取っていく。
おそらく9万株ほどある株すべてを、一つ一つ手で触って、草取りをする。
手除草はかなり大変な作業なのだけど、種まき、育苗、田植えをへて、田んぼでぐんぐんと大きくなっていく稲の一株一株に、一度は直接手を触れたいという気持ちもある。
一株一株に触れながら、あの数ミリしかなかった小さな芽がよくこんなに大きくなったなあと感慨深い。
6月の中旬から下旬にかけて、稲は日毎に成長していく。
葉を出し、分けつを増やし、みるみる大きくなっていく。
裸足になり、田んぼの泥の中に足を突っ込んで、黙々と手除草をして、ふと顔をあげると、吹き抜ける風に稲が揺れている。太陽の光が稲の影をつくり、それが水面に揺れている。
そんな時、一瞬だけ、自分もまた、この地に生えているかのような気がした。稲たちと共にここに生えて、太陽の光を浴びて、風に揺れている。そう感じた時の、何かが溶けるような不思議な「自由」の感覚は、20代に自転車で世界中を旅していた時の切実に求めていた「自由」と、もしかしたら同じものなのかもしれない。だとしたら私は何も変わっていないことになる。
もうしばらくすると、田んぼには入れなくなる。
稲の根っこが株と株の間に伸びてきて、田んぼの中を歩くと根を切ってしまう。稲も幼穂形成期に入るので、根を切るとダメージが大きい。だから直接田んぼの中に入って作業できるのはあと少しだけになる。
田んぼに入れなくなるまで、もうしばらくだけ、草取りは続く。