水辺農園だより
Vol.16 2023年3月


就農してからよく聞かれる質問の一つは、「冬のあいだは何をしているんですか?」というものだ。

「わりとのんびりとしてます」と答えたりしているのだが、実際は毎日何かしら作業をしている。常に注文に応じての籾摺りや精米、お届けや発送があるのだが、それ以外の時間は、一年目、二年目は、倉庫兼作業場として借りているコンテナハウスの片付け、掃除、改装、機械の整備などをやっていた。今年もそういう作業をしていたのだが、1月下旬から2月上旬にかけては、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加してきた。三年ぶりの10日間コースだった。

初めて座ったのは2009年だから、もう14年前になる。この14年間に、10日間コースには8回参加しており、今回が9回目だった。10日間コースのスタッフとして、ご飯を作ったりするボランティアも4回ほど参加している。

ヴィパッサナー瞑想の10日間コースがどういうものかについて、詳しくは、はじめて座った時の体験を書いた文章があるので、そちらを読んでほしい。https://tsuyoshihongo.com/essay

10日間、誰とも話さずに、完全に沈黙する。他の参加者と、会話はもちろん、目も合わせず、ジェスチャーもしない。スマホなども預ける。本やテレビ、ラジオもない。書くこともしない。朝4時に起きて、夜9時半に寝るまでの間、細かく決められたスケジュールに従って、休憩をとりながら合計12時間ほど座る。10日目に沈黙が解けて、他の参加者と話すことができる。そういう、とても本格的な合宿コースなのだ。


10日間、5つの戒律をとり(殺さない、盗まない、一切の性行為を行わない、嘘をつかない、酒・麻薬の類をとらない)、初めの3日と半日は呼吸を観察する瞑想をして集中力を養い、4日目の午後から体の感覚を観察する瞑想(ヴィパッサナー瞑想)を教わる。
10日間のプチ出家のようなもので、10日間だけは、出家修行者と同じような生活をすることになる。
そうして10日間かけて段階的に、ブッダが説いたというヴィパッサナー瞑想という瞑想法を学ぶ。
参加費は一切請求されない。食事も施設も、これまでに参加した人からの寄付で賄われている。
コース終了後に、これはいいもので他の人にもこの機会をと思うならば、寄付をすることができる。


初めて参加した時は怪しいものではないかと警戒し、一体何をするのか見当もつかなかったので緊張していた。
それでも10日間座り終えた時に、確かな手応えがあった。何なのかよくわからないが、確かに「ほんとうのこと」に触れているという手応えだった。
その後、初めの一年半の間に5回ほど座ったりボランティアをしたりして集中的に取り組み、それからは数年に一度座りに行くようになった。座るたびに発見があり、気づきがあった。それでも日常的に続けることはなかなか難しかったのだが、縁あって出会ったことだという気持ちは途切れることはなかった。


今回は9回目なので、初めての時のような緊張はなく、深く集中して座れた10日間だった。
そして、座っている間に、この14年間で自分の身に起こった変化が、その深い部分で、ヴィパッサナー瞑想で得た気づきに影響を受けていることを感じていた。こんなにも多くの恩恵をこの瞑想から受けていたと、気付かされた10日間だった。


14年前は東京のアパートで一人暮らしをしていた。
この14年間で、大町に移住し、結婚し、そして農業を始めた。
その変化の底には、ヴィパッサナー瞑想で体験したことがあった。

それは端的にいうと、「自由」という概念の変化だった。
私は、いつからかわからないが、心から、とても強く、自由を求めていた。
自転車で旅をしている時も、東京で一人暮らしをしてる時も求めていた。それは今でも変わらない。

変わったのは、「自由」という言葉が意味すること。
10日間、話すこともできず、センターから出ることもできない。スケジュールに従い、座る時間は座っていなければならず、食事は一日二度だけだ。4日目からは、たとえ足が痛くとも、可能な限り体を動かさないように言われる。

きっと刑務所よりも不自由だろう。こんなに究極的に不自由な状態になるのに、その不自由さを自ら選んだこととして受け入れて座っていた時に、不思議なことに確かに私は「自由」を感じていた。
身動きを一切せずに座っている時に、いま私は「自由」の真っ只中にいると感じていた。
そして、この「自由」の感覚は、今までの「自由」という概念を壊す強さを持っていた。
自分が求めている「自由」は、この方向にあるとも感じていた。

「この方向」へと変化し続けた14年間だったのかもしれない。
もっと自由になりたい、という強い気持ちは何一つ変わらないが、ヴィパッサナーの体験が、この14年間の変化の起点になっていることを、今回座っていてはっきりと感じていた。


自転車で世界を旅していた頃、あるいは東京で一人暮らしをしながら各地の沢へ行き水源の撮影をしていた頃、農業は私にとってあり得ない選択だった。
土地に縛られ、田舎の窮屈な人間関係に縛られ、好きな時に、好きな場所に行くことができない。
できることなら近寄りたくない、敬して遠ざかりたい職業だった。
その時の自分にとって、自由とは、何にも縛られないこと、好きな時に好きな場所に行けることだった。
喜望峰からの自転車旅でも、東京で暮らしている時も、好きな時に好きな場所に行く自由はあった。

しかし、東京で一人暮らしをしていたある時、ある本で、
「ありあまる自由さの中で立ち往生している」
という言葉に出会い、それがあまりにも自分の状態を表していると思い、愕然とした。
私は自由なはずなのに、なぜか立ち往生して、身動きが取れなくなっていると痛切に感じていた。

そんな状況の中で私はヴィパッサナー瞑想に出会った。そしてそれからの14年間に起こった変化は、自ら進んで不自由さを受け入れていくことで、「ほんとうの自由」を手にするという道を歩んでいる。
かつてあり得ないと思っていた農業を、もっとも自由な仕事だと思いながら取り組んでいる。

この14年間で自分の身に起こった変化は、確実に良い方向へと、自分を導いていった。
この道を、このままもっと先へと進んでいくと、どんな光景が広がっていくのだろうか。

春になったら、種まきをして、育苗をする。
田植えは5月末から6月上旬だろうか。
草取りをして、やがて穂が出て、秋に稲刈り、脱穀をする。

農業をするということは、自然の摂理の中に入るということ。
その循環の中に入り、一年の繰り返しの営みの中で生きていくこと。
そこにある自由は、好きな時に好きな場所に行ける自由とは、根本的に違う性質のものだ。

どのように違う性質なのだろうか。
それは「自分」という狭い場所から自由になっていく道なのかもしれない。
自然の摂理の中へと、自分を解いていくこと。
太陽の下、土の上の、季節の繰り返しの営みの中で、一日一日を生きること。
一日一日をしっかりと生きて、安らかに死んでいくこと。

今、私は、そのような自由に魅了されている。そのような幸福と言いかえてもいいのかもしれない。
田んぼの畦道を歩きながら、なんて自由なんだろうと感じることがある。
まだ歩き始めたばかりだが、この道の一歩ごとに、開けてくる光景がある。

冬の間は、葉を落とした木々のように、春を待ちながらエネルギーを蓄えている時期なのかもしれない。
春になったら、ふたたび田んぼの仕事が始まる。
10日間、深い沈黙の中で座りながら、そのことが嬉しく、そして待ち遠しく感じていた。




(写真は2022年の春から冬までの1年間の田んぼの定点観察です。)

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