水辺農園だより
Vol.2 2020年5月

5月は育苗をし、そして田植えをした。

育苗をしている期間中ずっと、朝起きて、支度をして、軽トラックで苗床に向かうまでの15分間が、いつもうれしいような、心配なような、わくわくするような時間だった。
今日はどれぐらい成長してるんだろう、何か問題は起きてないだろうかと、いろいろと想像しながら軽トラックを走らせていた。

芽が出た苗を、田んぼに並べて育苗をしていた。
ハウスではなく露地での育苗で、田んぼの土のうえに直接苗箱を並べて、水を入れてプール育苗をした。
湖からの風が直接吹き付ける場所にあり、苗にとっては過酷な環境ではある。でもそういう環境だと病気にもなりにくく、丈夫な苗になる。

毎日、苗の成長を観察するのがとても楽しかった。
苗は、暑さ、寒さを乗り越えてスクスクと元気に育ち、やがて田植えの時期になった。

去年までは2枚だった田んぼが、今年は6枚に増えた。
今までは全て手植えをしていたけれど、歩行型二条という小さな田植え機を譲ってもらえたので、今年は初めて田植え機でも植えてみることにした。いろいろと段取りを考えて、まず3枚の田んぼを機械で植えて、数日間を空けてからもう3枚を手植えをすることにした。

まずは機械植えをする。
初めての機械植えだったので、本当にちゃんと植えられるのか心配で、説明書を何度も読んで準備していたが、いざやってみるとあっけないほど簡単に植えられた。
機械植えの場合、機械を操作するのは一人で、苗を補給する手伝いを家族にお願いして、身内だけで田植えができてしまった。そして早い。手植えと比べると断然早い。そしてきれいに等間隔に植えていく。

無事に機械植えを終えてほっとして、こんなに簡単に田植えができてしまうのなら、全部機械植えにしてもいいかもしれないとすら思ったけれど、でもやはり、何か物足りなさを感じているのも事実だった。

一体何が物足りないのだろうか。
手植えをする田んぼの代かきなどの準備しながら、ずっと考えていた。
一人で植えているのが物足りない。そして苗を手に持って泥の中に植えるという行為がないのが物足りない。田植えが、例えばトラクターでの代かきと同じような、機械を使った農作業の一つと同じような、それほど特別ではないことになってしまうのが、物足りない。

ある程度以上の面積になってくると、すべて手植えするのは現実的ではないし、稲の生育のことだけを考えたら、わざわざ手間隙かけて手植えする理由はあまりないのかもしれない。

それでも、やはり、せめて1日だけでも、田植えがお祭りのようになる日があって欲しいと思った。それは機械植えを経験したことでより一層強く気付かされたおもいだった。


稲づくりを始めたのは4年前だけど、2年前から田植えと稲刈りを友人たちに告知して、みんなで作業するということをはじめた。

遠くから近くから、湖畔の田んぼに集い、皆で作業し、畔でお茶をしたり、お昼ご飯を食べる。子供たちはもっぱら湖で遊び、少しだけお手伝いをする。そこで出すお米は、もちろん昨年この田んぼで穫れたお米だ。
そういう光景が春と秋に繰り返されるようになり、その時間が何か恩寵のようにすら感じられ、こういうことがやりたかったのだと強く思った。

太陽の下、土のうえ、水辺で仕事をしたいという想いが、水辺農園をはじめた一つの理由だけど、もう一つの理由があるとすれば、稲という植物や田んぼという場を仲立ちとして、友人同士がゆるやかにつながり、さらには人と自然とがゆるやかに結び付けられていく、何かそういう、眩しいような光景を、実現させていきたいと思ったのだ。


手植えは三日間かけておこなった。
今年は感染症の流行もあり、あまり多くの人には告知しないでいたけれど、それでも毎年楽しみにしてくれている友人たちが集ってくれて、3枚の田んぼを無事植えることができた。天気もよく、何か夢の中にいるかのような時間だった。


田植えを終えた翌日に、田んぼに残された足跡を見て歩くと、にぎやかな声が聞こえてくるようでとても楽しい。稲は足音を聞いて育つと言われているけれど、こんなにたくさんの足音があると、元気に育たないわけがない。

田植えが終わるとすぐに草取りが始まる。
除草機を押して田んぼを歩いていても、にぎやかな声は聞こえてくる。やがてその声は、虫や鳥の鳴き声と混ざり、雨や風の音と混ざっていく。
人と人とが、そして人と自然とが、こうやって結びついていくことが嬉しくて、田んぼの中を歩きながら、世界がこうなっていたらいいなという、そういう場所のまんなかを歩いているような気さえしてくる。



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